お弁当の暴力性についての考察
突然ですが、私はお弁当が苦手です。
朝出かける際、使い捨てではない容器に入った、お昼ごはん用にという、手作りのお弁当が。
苦手な要素を分解していきます。
・「朝出かける際、使い捨てではない容器に入った」
朝からすでにお昼ごはんが決まってるんかーい!という気持ち。
持ち物が増える、というのもかなりの気がかり。食べた後も、容器を持ち帰らなければいけないので、重さは減ってもカサが減らないことも、気が重くなる重要なポイントです。
・「お昼ごはん用にという」
お昼の私はそれを食べたいかどうか分からない、そもそもお昼ごはんを食べたいかどうか分からない。
・「手作りで」
<自分以外の手作りの場合>
プロではない、他者が作った食べ物が苦手、という訳ではありません。嫌いな食べ物(豆など)でなければ、自分で作る手間を省いてくれたありがたいものとして、おいしくいただきます。
残したら生ゴミとして処分することになり申し訳ない、という気持ちになってしまいます。
中高生のころ母にお弁当を作ってもらっていましたが、ほぼ手をつけずなことがちょいちょいありました。
持って帰ってお弁当箱を渡し、中身を捨てていた母の気持ちを考えると。何の文句も言われなかっことが、信じられません。私なら二度と作らない、くらいなことを言ってしまうかも。
母には本当に申し訳ないことをしたと、お弁当を作る側になってひしひしと感じました。
<自分の手作りの場合>
自分で作ったものを、時間になるまで自分で持ち歩き、内容が分かっているものを食べる、ということに、価値を見い出せません。
中身=知ってる 味=知ってる 楽しい要素がない。
私が料理上手であれば、価値を感じられるのかもしれませんが。
夫にお弁当を作るようになり、
こんなお弁当持ってって楽しいのかな?(おにぎりとスープだけのときもある)
重いだけじゃないかな?
でも重いなら筋トレになるからいいのかな?
と思考がとまりません。
というところも、私にとってお弁当の暴力性を感じる部分ではあります。